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種沢館は雄物川の下流域、右岸の丘陵ピーク(比高90m)に築かれた山城で、南北に細長い稜線尾根を城域としています。規模は東西150m×南北500mほど、北から北郭ー主郭ー南郭を敷設したシンプルな連郭構造で構築されています。頂部ピークを加工した主郭は東西7−10m×南北40mほど、中央に高さ3mの櫓台と思われる高台が築かれています。主郭の南側斜面は高さ15mの切岸に削崖され、斜面に小郭が2段 普請されています。さらに南側の尾根先端に削平は甘いものの郭と思われる平場が配置されています。(南郭) 主郭から北側の尾根先端に北郭が配置され痩せ尾根で繋がっています。北郭の規模は東西7−8m×南北20−25mほど、北側稜線の緩斜面を三重堀で遮断し防御ラインとしています。種沢館の中枢は高い切岸と三重堀で区画された主郭から北郭の痩せ尾根と想定され、東・西側に延びた支尾根も堀切で遮断されています。各郭は尾根の若干 広がった部分を削平したため小規模なもので小屋掛けするスペースしかなく、長期間の籠城には耐えられず、基本的に短期の「避難郭」・物見として利用されたと思われます。
築城時期・築城主体ともに不明。一説に康平5(1062)年、「前九年の役」で敗れた安倍貞任の一族(家臣か?)がこの地に逃れ、種沢太郎を名乗り館を築いたとも。南北朝期、十三湊安藤氏の一族(師季?、鹿季?)が足利氏の後楯で小鹿島、秋田郡に入部して湊安東氏を称し、さらに雄物川下流域を支配下におさめ、種沢館もこの頃 湊安東氏の支配下に組み込まれたと推測されます。戦国期、同地は東に戸沢氏、南に「由利十二頭」 赤尾津領に隣接した「境目」で、さらに湊安東氏の経済基盤であった雄物川舟運を監視する重要拠点であったと推測されます。天文20(1551)年、湊安東左衛門佐尭季が死去すると尭季の外孫で養子として湊家に入っていた茂季(檜山城主 安東愛季の弟)が家督を相続します。そして愛季は茂季を後見する名目で湊城に入ると、次第に湊安東氏の利権権益に口を挟むようになりますした。このため永禄10(1567)年、豊島城主 豊島勘十郎重氏は川尻、下刈氏等の土豪衆とともに愛季に対して挙兵しました。そして種沢館はこの際、豊島勢の攻撃を受けて落城したと伝えられます。(種沢館の落城は元亀2年とする説もあるようです) |
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湊安東氏の「境目の城」 |
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山城 |
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郭(平場)・堀 |
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場所はココです |
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種沢神社(種沢集会所)の駐車場借用 |
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平成21(2009)年1月9日 |
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種沢館は雄物川の右岸、種沢地区東方の丘陵に築かれた山城で、南北に細長い尾根を城域としています。(写真左ー西側からの遠景) でっ、城へは西麓の種沢神社の裏から山に入り(写真左下)、尾根に造られた堀底道(近世の種沢神社参道)を通り尾根まで登ります。(写真中下)
でっ、堀底道は尾根に断ち切った堀切に繋がっています。(写真右下) |
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でっ、管理人は堀切からまずは南方向に進み、南郭に辿り着きました。南郭の規模は東西7−8m×南北20mほど(写真左上)、東ー南ー西側は急斜面になっています。でっ、管理人は南郭から堀切に戻り、尾根を北方向に進むと主郭南側の切岸にぶち当ります。(写真右) でっ、高さ15mの斜面に小郭が2段の敷設され(写真左下)、導線は東側側面を通るように設定されているようです。(写真右下) |
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主郭(写真左上) 規模は東西6−7m×南北10mほどの高台(櫓台?)を中心に北・南側に郭が配置された構造になっていて、全体の規模は東西7−10m×南北40mほど。南側は前述した切岸で区画され、西側の支尾根は堀切で遮断され(写真右上)、北側は痩せ尾根に繋がっています。(写真左)
近世、ここに種沢神社が祀られていたようです。(現在は山麓に移築されています) |
北郭(写真左下) 規模は東西7−8m×南北20−25mほど。主郭と痩せ尾根繋がっていますが、尾根に堀は見られません。 (写真右下ー三重堀の内堀) |
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北郭の北側尾根は緩斜面を三重の堀切で遮断しています。堀自体は緩斜面を利用しているため浅いものですが、切岸は6−7mの高さを確保しています。また2条目の堀は横堀状に東側斜面に延ばし畝堀で処理しています。(写真左上ー中堀
写真右上ー外堀) |
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