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新 田 目 城 |
秋田県横手市(旧十文字町)十文字町鼎 |
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新田目城は横手盆地の中央南部、皆瀬川右岸の微高地に築かれた平城と推定され、鼎荒田目地区周辺が城地と思われます。現在、城址は民家宅地、耕作地に改変され遺構等は残存せず、規模・構造等は不明。近辺に今泉館、小鼓城等の方形館と推測される城館があることから、基本的に濠と土塁で囲まれた方形館と推測されます。
築城時期・築城主体ともに不明。城主は『奥羽永慶軍記』(客観的史料でない |
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ためあまり 使用したくないのですが ・・・・・)に登場する新田目内膳、隼人、惣助等の新田目氏とされます。新田目氏の出自は不明、もともと皆瀬川下流域を開発した在地領主と推測され、室町初期
同じ皆瀬川下流域の在地領主 大石氏、河熊氏、今泉氏等とともに平鹿郡に勢力を拡大した稲庭城主 小野寺氏の支配下に組み込まれたともの思われます。元禄10(1697)年、角間川給人 新田目嘉左衛門が佐竹藩に提出した『先祖伝承申通書指上候事』によると、新田目内膳は小野寺遠江守義道に仕えて新田目郷の支配を申しつかり、その子 隼人もまた義道に仕えたと記されています。『奥羽永慶軍記』によると新田目内膳は天正10(1582)年の「大沢山の戦」に出陣し討死したとされ、同12(1584)年の「有屋峠の戦」に新田目惣助が出陣しています。文禄4(1594)年、山形城主 最上義光は楯岡城主 楯岡豊前守満茂を総大将として雄勝郡に侵攻し、湯沢城、岩崎城を陥落させ雄勝郡中央部を制圧することに成功しました。翌5(1595)年、湯沢城奪還を目指す横手城主 小野寺義道は雄勝へ出陣しましたが、「大島原の戦」で最上軍に頑強に抵抗され横手への退却を余儀なくされました。この好機に最上軍は平鹿郡への進軍を開始し、新田目城は小鼓、今泉、河熊、南部倉の四城とともに最上軍に制圧されました。慶長3(1598)年、義道はふたたび 雄勝に出陣して新田目、小鼓、河熊、南部倉四城の奪還に成功し、新田目隼人が城主に復帰しました。そして同5(1600)年の「関ヶ原」後、小野寺氏は改易なり、隼人は秋田に入封した佐竹氏に仕官して角間川給人になったとされます。 |
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平鹿の在地領主 新田目氏の居館 |
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平城(方形館か?) |
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場所はコノヘンらしいです |
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路上駐車 |
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平成20(2008)年5月16日 |
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新田目城は現在の十文字町鼎地区に存在していたとされますが、城址は宅地化、開墾等により遺構は存在せず、城域・規模等は不明。(写真左上) 鼎地区は周辺の水田より若干
高い微高地にあり、南側に愛宕神社が祀られています。(写真右上) |
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