今 泉 館
秋田県横手市(旧十文字町)十文字町睦合館前
立地・構造
 今泉館は横手盆地の中央南部、雄物川と皆瀬川の合流地北東の微高地に築かれた平城で、濠と土塁で囲郭された方形館と推測されます。現在、館祉と推測される館前地区は宅地化、周囲の開墾等により遺構は消滅していますが、北・南側に微かな段差で濠祉と思われる窪地が確認できます。(東・西側にも な〜〜〜んとなく、ここかな〜〜〜 と思われる箇所あり) 濠の規模は北側が幅7−8m、南側が幅15mほど。この濠祉の縁部から館内部を推定すると規模は南北110−120mほど。(東西も同規模か?) 館の
南側に「宿」と呼ばれる地区があり、町屋・家臣の居住地と思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。菅江真澄の『雪の出羽路』「今泉ノ城主を菊池采女正といひ、今泉太郎左衛門尉といふ、さだかにそれをしりがたし」と記され、城主は今泉氏とされます。今泉氏の出自は不明、元亨2(1322)年 永泉寺が創建された時の大旦那として佐藤采女守(今泉氏か?)の名が伝えられていることから、鎌倉末期頃まで この地を開発した在地領主と推測されます。その後、室町初期 稲庭城を拠点とした小野寺氏が平鹿郡に勢力を拡大する過程で、同じ皆瀬川北岸の在地領主 新田目氏、河熊氏、大石氏等とともにその勢力下に組み込まれたと思われます。『奥羽永慶軍記』(あくまで軍記物のため あまり使用したくないのですが ・・・・・)によると今泉氏は天正10(1582)年の「大沢山合戦」、同12(1584)年の「有屋峠の戦」、同15(1587)の「唐松野の戦」に参陣しています。文禄4(1594)年、山形城主 最上義光は楯岡城主 楯岡豊前守満茂を総大将として雄勝郡に侵攻させ、湯沢城岩崎城を陥落させ雄勝郡中央部を制圧することに成功しました。翌5(1595)年、湯沢城奪還を目論んだ横手城主 小野寺遠江守義道は雄勝へ出陣しましたが、「大島原の戦」で最上軍に頑強に抵抗され横手への退却を余儀なくされました。これを好機に最上軍は平鹿郡への進軍を開始し、今泉館新田目植田、河熊、南部倉の四城とともに最上軍に制圧され、今泉太郎左衛門は討死したと伝えられます。慶長3(1598)年、義道は再度 雄勝に出陣して新田目植田、河熊、南部倉の四城の奪回に成功しましたが、今泉館の名が見えないことから、この間 今泉館は最上氏により破却されたものと思われます。
歴史・沿革
今泉館 北側の濠祉
メモ
平鹿の在地領主 今泉氏の居館
形態
平城(方形館か?)
別名
・・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・濠祉
場所
場所はコノヘンらしいです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成20(2008)年5月16日
今泉館は皆瀬川北岸の平野部に築かれた平城で、周辺は館前と呼ばれています。(写真左上) 内部は現在、宅地になっていますが、周囲の水田面よりかすかに高い微高地になっていて、北・南側の水田は濠祉と思われる形状になっています。(写真右上ー北側の濠祉 写真左ー西側の濠祉? 写真左下ー南側の濠祉 写真右下ー東側の濠祉?) この濠祉から館の規模を推定すると南北110−120mほど(東西も同規模か?)、ま〜〜〜、典型的な単郭構造の方形館と思われます。
宿地区
今泉館南方の微高地に位置し、今泉氏の家臣、給人の居住地を含む町屋だったと思われます。
永泉寺
元亨2(1322)年、創建と伝えられる今泉氏の菩提寺。
秋田の中世を歩く